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中国作家

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謝稚柳陳逸飛溥儒王鐸
郭沫若胡鉄梅呉昌碩康有為
徐悲鴻斉白石石濤孫文
張瑞図董基昌八大山人于右任
范曾

溥儒

溥儒(ふじゅ)
1896-1963 北京出身

字は心余、号は西山逸士と称した。(※心余の余は冠が「余」脚が「田」) 
清の宗室恭親王の後裔。
幼時より詩詞、書、画を学び、画は南宋を宗として熟紙を好んで用い、従来の画法とは異なり、古典的な中にも新風を与えている。
当時、張大千と共に「南張北溥」と称され、1941年前後には北京芸術専科学校の教授をつとめた。
 

王鐸

王鐸 (おうたく)プロフィール
明・万暦20(1592)~清・順治9(1652)

明末清初の官僚、書画家。字は覺新、号は癡庵・癡僊道人など。河南省孟津の人。官僚として礼部尚書の位まで至ったが、明末の争乱期に遇い、清に降服。再び清朝に仕えたので、「弐臣」と非難を受けるが、その精神の根底には明朝への追慕があった。詩書画を能くし、特に書に於いて名を為す。魏晋に基礎を置きながら、古帖の臨書に精励して一家を成した彼は、歪みながら次々と連綿する、特徴的な独自の書風を確立。時代の流れに翻弄された彼の苦悩に重なるその書風に対して、書家・村上三島は「苦渋の書」として高く評価した。

郭沫若

郭沫若 (Guo Moruo)プロフィール
清・光緒12(1892)~中華人民共和国・1978

近代中国の文学者、政治家。22歳の時に日本へ留学。第一高等学校予科、第六高等学校を経て九州帝国大学医学部を卒業した。学生の頃から文学に親しみ、文学団体の設立に参加するなどしていた。帰国後は国民党に参加、しかし蒋介石と対立したため、1928年に妻の故郷である日本へ亡命。苦しい亡命生活の中で中国史研究に没頭した。1937年に日中戦争が勃発すると妻を日本に残して中国へと戻る。戦後は中華人民共和国に於いて政治・文化の両面で要職に就き、指導的な立場に就いた。しかし、文化大革命が発生すると、知識人として苛烈な自己批判を強いられ、『今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い』と宣言するに至った。現在も現代文学および歴史といった文化面での業績が高く評価される郭沫若だが、晩年は不運にも政治的混乱に巻き込まれたことで、その評価に暗い影を落とすこととなってしまった。

胡鉄梅

胡鉄梅 (こてつばい・Hu Tiemei)プロフィール
清・道光28(1848)~明治32(1899)

清代末期の書画家。名は璋、字は鉄梅。安徽省桐城の人。画家胡寅の子。日本人女性・生駒悦と結婚し、晩年に来日して日本で画名が高まった。文人趣味の溢れた四君子・花卉雑画の類を得意とした。特に梅画は王冶梅と並んで有名である。また柚木玉邨など日本の南画家にもその技を伝え、明治後期の南画壇に影響を与えた。

呉昌碩

呉昌碩(Wú Chāngshì)プロフィール
清・道光24(1844)~中華民国・民国16(1927) 

 中国近代の書画家、篆刻家。詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛され、中国近代でもっとも優れた芸術家と賞賛されている。初名は俊、のちに昌碩と称した。浙江省安吉の人。
名家に生まれるが、17歳の時に太平天国の乱に巻き込まれ、一家離散の憂き目に遭って湖北・安徽省を流亡。しかし苦しい生活のなかでも勉学は怠らず、篆刻や文字訓詁を熱心に学んだ。
 29歳になると杭州・蘇州・上海等に出て、広く師友を求める。仕官を望まず、学を深めながら大勢の師友を得たことで、識見を広め、書へも領域を広げて技量を伸ばしていった。
 以後、書や篆刻を売りながら細々と生計を立てたが、50歳に至って任伯年に師事し、本格的に画を学ぶ。やがて上海の富裕層が彼の画を好んで買い始め、その名が世に知られ始めた。
 日本でも長尾雨山や河井 廬によって紹介され、大正11年に大阪高島屋で展観が行われてからは書画愛好家の間でも関心が高まり、「中国最後の文人」として広く注目を集めた。

康有為

康有為 (こうゆうい・Kang Youwei)プロフィール
清・咸豊8(1858)~民国16(1927)

清末民国初の政治家・学者。初名は祖詒、字は広厦、号に長素・南海等。広東省南海の人。
廖平に公羊学を学び、陸象山・王陽明に私淑して儒学を研究したものの飽き足らず、独学で仏教・洋学も修める。科挙に合格して任官した後は、李鴻章の洋務運動を非難して、より急進的な政治改革、「変法自強」を主張するようになる。光緒帝に登用されて中国近代化の先駆者として大きな役割を果たしたが、西太后ら守旧派のクーデターにより失脚。その後、清国からの刺客を避けつつ、日本で亡命生活を送る。その間に伊藤博文や犬養毅を始めとする著名人達とも親交を結んだという。1911年に辛亥革命が起きると、ようやく中国へ帰国の途に就くが、彼が兼ねてより唱えていた立憲政治の政体論は既に時代錯誤のものとなっており、政治の表舞台に出ることは殆ど無かった。

徐悲鴻

徐悲鴻 (じょひこう・Xú Bēihóng)プロフィール
清・光緒20(1895)~中華人民共和国・1953

近現代中国の美術家、美術教育家。幼少の頃より、父・徐達章に詩文書画を学ぶ。上海復旦大学フランス文学系に入学、苦学のなか独学でデッサンを学ぶ。1917年、日本に留学し、帰国後は、北京大学画法研究会導師を務める。また1919年には念願のフランス留学を果たし、油画を学ぶとともに、西欧各国を巡り、美術作品の研究に努めた。1927年に帰国した後は、中央大学芸術系教授、北京大学芸術学院院長を歴任。中華人民共和国成立後は、中華全国美術工作者協会主席、中央美術学院院長などの職を歴任した。写実を強調したリアリズムに基づく画風で、自然を師とすることを提唱した。長年にわたり美術教育に従事し、多くの美術人材を育てたことから美術教育家としての評価も高い。

斉白石

斉白石(さいはくせき)プロフィール
1864 - 1957

中国清朝末期から現代の詩人・画家 ・篆刻家。日本語読みは「せいはくせき」だが「さいはくせき」の読みも一般的。英語では"Qi Baishi"と表記。
 斉白石は湖南省の貧農の家に生まれた。幼い頃から絵を描く事を好む。家計の困窮と病弱により学校には1年に満たない期間しか通えなかった。農作業を手伝うのにも必要な体力に欠けていたが、14歳で指物師として働き始める。木工としての腕は極めて優れ、やがて広い地域で評判となる。
  27歳でようやく本格的に地元の画家について花鳥画、山水画等の画法の勉強を始め、同時期に、詩文も学んだ。30歳で、書法・篆刻も独学した。
40歳頃から5回にわたり、中国各地を旅してあらゆる景観を銘記し、同時に全土の優れた伝統芸術を実見して芸術家としての視野を広げた。
 57歳で、戦乱を避けて北京に移住し、書画に専念する。その後、斉白石は、徐渭(じょい)の奔放な溌墨、石濤(せきとう)や八大山人のシンプルで深淵な筆さばき、呉昌碩(ごしょうせき)の書法などを吸収して、いわゆる「紅花墨葉」の画風を確立した。
 題材は海老、蟹、鶏、蛙などのいきものをシンプルに描くことを好んだ。また、草花、花鳥、昆虫、山水などを組み合わせ、濃い色彩と自由闊達な水墨を用いて生き生きと描いた。1922年(58歳)、日中連合絵画展に出品。日本でも知られるようになる。1930年(66歳)にはイサム・ノグチが北京に来て画法を学びに来ている。
北京芸術専科学校教授、中国美術協会主席などに就任。陳半丁・陳師曽・凌文淵と共に、斉白石は京師四大画家と称された。

石濤

石濤(せきとう・Shí Tāo)プロフィール
明・崇禎15(1642)~清・康煕46(1707)

清代初期に活躍した画家。俗称を朱若極、石濤は字であり後に道号とした。靖江王府(現在の広西チワン族自治区桂林市)に生まれる。明王家の後裔に当たるが、父が明王家に対する反逆の罪で謀殺されるなど、明末清初という混迷の時代に翻弄された幼年期を過ごす。追われる身となったため、身を隠すために僧侶となり、そこで書画に没頭。武昌、廬山、宣城、南京と地方都市を転々としていたが、40代後半になり、康煕帝から庇護を受けようと上京。しかし仏教を冷遇していた康煕帝の庇護を受けることは出来ず、在野の画家として生涯を終えた。後に黄山派の巨匠として高く評価され、八大山人などと並んで「四画僧」と称賛された。

孫文

孫文 (Sun Wen)プロフィール
清・同治5(1866)~民国14(1925)

近代中国の政治家。字は逸仙、号は中山。はじめ医師として世に出るが、革命思想を抱くようになり、興中会・中国同盟会などを組織。日本を始めとして諸外国を流転しながら亡命生活を送る。三民主義を唱えて辛亥革命を起こし、翌年に中華民国を建国、臨時大総統に選ばれたが、間もなく袁世凱に実権を与えてしまうこととなる。再び日本に亡命し、実業家・梅屋庄吉に支援を受けながら、反袁活動を展開する。1919年には中国国民党を結成して国共合作に奔走するも、「革命未だ成らず」の言葉を残して北京で没する。

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