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中国作家

王一亭王雪濤黄公望黄賓虹
黄冑啓功呉冠中呉作人
謝稚柳陳逸飛溥儒王鐸
郭沫若胡鉄梅呉昌碩康有為
徐悲鴻斉白石石濤孫文
張瑞図董基昌八大山人于右任
范曾

張瑞図

張瑞図(Zhāng Ruìtú )プロフィール
明・隆慶4(1570)~(1640)?

明末の書画家。字は長公、号は二水・果亭山人など。福建省晋江の人。科挙試験を第三席で合格(探花及第)して官に就いたが、宦官魏忠賢を巡る政争に巻き込まれ失脚。郷里の福建省に戻り、詩作や書画、そして禅僧との交遊を中心とした生活を送った。書画共に優れた作品が多いが、特に書は書風が極めて特異なものであったため中国では珍重されなかった。日本では黄檗宗の伝来と重なり、比較的早くからその書が注目された。また、「二水」という号に因み、水星の生まれ変わりとの伝説があり、火厄逃れの書として珍重されたという。没年は未詳、一説には崇禎17(1644)年に明朝の滅亡と共に没したと伝えられている。

董基昌

董基昌(とうきしょう)プロフィール
1555-1636

字は玄宰、号は思白など。江蘇省華亭の人。明時代末期に活躍した文人。はじめ同郷の書家として有名な莫如忠に学び、その子是龍とも交わる。二王やその流れをくむ唐時代の名家、北宋時代のべいふつなどの書を学ぶが、項ゲンベンなど大収蔵家の下であらゆる肉筆作品を鑑賞、研究する機会に恵まれたことが書画家としての大成に大きく役立った。「行草書羅漢賛等書巻」(東京国立博物館)をはじめ、多くの作品が現存している。清の康煕帝が董其昌の書を敬慕した影響もあり、董其昌の書風は明末清初を通じて流行した。晩明の四大家の中でも特に後世に絶大な影響を与えている。

八大山人

八大山人(はちだいさんじん)プロフィール
1626~1705

南昌(江西省)の人。明の太祖の朱元璋・洪武帝の子孫にあたる。八大山人は晩年の号。本名は朱耷。明の滅亡後、姓名を捨て、箇山等の名前を用いたが、八大山人の号が本名以上によく知られている。1644年、明が滅亡したが、明の宗室の子弟は清朝の統治の危機から生き延びるために、姓や名を曖昧にするしかなかった。朱耷が本名かどうか定かでないともいわれるが、その理由はここにある。

于右任

于右任 (Yu Youren)プロフィール
清・光緒5(1879)~民国53(1963)

清末から中華民国にかけて活躍した政治家・文化人。名は伯循だが、一般には字の右任を用いて呼ばれる。筆名には神州旧主・騒心・大風・剥果・太平老人などがある。光緒29(1903)年に挙人となるが、政治を風刺したとして、清朝の指名手配を受け、上海に隠れ住む。その後、日本に留学し、中国同盟会に加入。帰国した後は『民呼日報』、『民立報』などの新聞を創刊し、革命派の言論・思想を発信した。1912年、南京で中華民国臨時政府が設立されると、政府内の要職に就く。さらに葉楚�欧と共に国立上海大学を創設し、于右任が校長となった。1926年、蒋介石が南京に国民政府を創設すると、于は国民政府委員や軍事委員会常務委員を歴任。1938年には、国防最高委員会常務委員に任ぜられた。新中国建設後は台湾へと逃れ、国民党評議委員などを務めた。政治家として活動する一方、文化人としても知られ、書・漢詩などで優れた作品を残している

范曾

范曾 (はんそう・Fan Zeng)プロフィール
中華民国27(1938)年~

中国近現代の画家。江蘇省南通市の人。はじめは南開大学にて歴史を学んでいたが、のち中央美術学院で中国画を学ぶ。1979年には栄宝斎代表団とともに来日、東京や大阪で作品展を開催した。 1986年以降はアメリカやドイツなどでも作品展を催すようになり、日本各地でも個展が催された。岡山市西大寺には個人美術館である「范曽美術館」も設立されている程、日本とゆかりの深い画家である。書作品も数多く制作しているが「中国人物画の鬼才」と評されており、とりわけ人物画が賞賛されている。

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